丸宮商店の歴史~伏忠から丸宮商店へ

私の父の名は、宮内治三郎。千葉県、銚子、外川の出です。本籍は、千葉県、銚子市、外川町、4丁目11162番地。

父、治三郎は、根っからの魚好きだったのでしょう、魚屋になりたくて、尋常小学校を出るとすぐ、日本橋魚河岸の「伏忠」に奉公に上がりました。

伏忠は、私の母方の実家で、苗字は若林です。私の祖父の若林幸太朗が、伏忠の何代目かは、記録がなく、知る由もありませんが、関東大震災前の資料によると、東京市日本橋区小田原3番地に、幸太朗の子の武太郎名義で魚類仲買業が、日本橋区舟町3番地に鮮魚問屋が、若林幸太朗の名で記録があります。昭和7年の土地名称及び地番変更により、小田原町の住所が、室町1丁目14番地2に更正されました。

大正12年9月1日、関東大震災が東京を直撃、未曾有の災害は全て焼きつくし、長い歴史を誇った日本橋魚河岸はその幕を閉じました。この震災で、祖父の若林幸太朗と叔父の若林啓之助をなくしました。家督は、幸太朗長男の武太郎が継ぎ、伏忠の店の名義も引き継ぎました。

しかし、幸太朗に子がなく病弱ということもあって、弟、啓之助の子の篤一を養子に迎えました。私には、従兄弟にあたります。昭和14年、私は小学生1年生の時、築地の市場に遊び行った時、伏忠の店で、父も従兄弟も、叔母も働いていたのをうろ覚えですが、覚えています。

昭和16円10月、農林省の(中央卸売市場整備の件)という通達で、仲買制度が廃止されました。

昭和16年12月8日、大東亜戦争開戦。

昭和20年8月15日 終戦。
このあいだの話は、戦争中の魚河岸という括りで、後日、このブログでお話をしたいと思います。

昭和25年、仲買制度開始に際して、従兄弟の若林篤一が「伏忠」を、父の治三郎が「丸宮」を申請。許可され、2枚鑑札で、営業を始めました。

昭和27年4月私は、製図が好きで選んだ学校も、6年間学んだ応用化学を生かした就活にも未練がなかったわけではないですが、両親に頼まれて、反抗もせず、魚河岸での生活を決心しました。

一晩、泣いたのを覚えています。

父の友人で、商売上手の泉政、小野間惣吉さんの店で修行に入りました。短い間ですが、私には勉強になりました。伏忠の3代目として、丸宮はまだまだ先の話です。

父が、セリ場でセリ落とした魚を店で売るという平凡な日が長く続きました。父が、早く60代で退いたので、私一人の時代が続きます。

昭和58年、大瀧晴彦が入店しました。私の姉の、成子の長男、私には、甥にあたります。久しぶりの新戦力の加入で店も活気づき、商いも順調さが続き、現在まで丸宮商店は続いております。

そして、平成28年11月19日、築地魚河岸施設内に、店舗をオープンします。