明治時代になって、明治新政府の指導で徐々にですがその姿を変えましたが、人口の増加が、消費の拡大、供給の混乱、その上、衛生管理の不備からコレラ騒動を誘発して、公設の卸売市場を望む声が高まりました。

1923年(大正12年3月)中央卸売市場法の制定によって市場の運営権が東京市に委ねられ、公正な取引による価格と品質の安定、衛生的な市場つくりが始まろうとした時、同年9月1日の関東大震災によって、長い歴史を誇った日本橋魚河岸が焼失してしまいました。

図書館で借りてきた資料です。関東大震災直後の市場です。

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一般に魚河岸という呼称は、魚市場の同義語と考えられがちですが、実は日本橋魚市場固有の別名だったのです。

震災直後、芝浦に仮設市場が設けられましたが、同年12月には、交通の便が悪くなり、狭いなどの理由から、東京市は海軍省から築地の用地の一部を借り、市設魚市場として芝浦から移転させました。中央卸売市場開設までの暫定市場として建設したものが、これが築地市場の始まりです。

魚河岸は、300年の歴史を経て、築地へ移転しました。平成28年の現在、築地の中央卸売市場は、豊洲へ移転しようとしています。
開場から81年の歳月がたちました。このあいだの歴史は、後々あらゆる角度から調べて、このホームページで逐一お知らせいたします。

 

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