Category: 魚河岸の歴史

発泡スチロール(魚容器 その2)

発泡スチロール(魚容器 その2)

 

毎度!宮内一郎です。

前回は木樽の話が中心でした。今回の話題は発泡スチロールです。魚の容器は、昭和三十年代に入ると、漁獲量の減少・経費の節約等を考慮してか、様々な方策が取られるようになります。

例えば、新潟からのスルメイカの出荷には、リンゴ箱にビニール袋を入れて、水氷に生イカを入れていました。三陸、北陸地方からは、石油の空き缶にビニール袋を入れ水氷にスルメイカを入れて出荷されていました。また、亜鉛メッキの金属の通い箱に蓋をつけたものとか、防水ダンボールの魚箱が出たのもこの頃でした。

このリンゴ箱と石油缶の組み合わせは意外にも長い間使われていました。リンゴ箱に石油缶が二個すっぽり入り出荷されるので、出荷者にとっては経費の面では助かった反面、運ぶ労力には苦労した想い出もありました。

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逆さ樽 (魚容器 その1)

逆さ樽  (魚容器  その1)

毎度!宮内一郎です。

今回の話は、「入れ物」です。勿論、魚の入れ物、容器です。

昔から築地の魚河岸では、仲卸(以前は仲買)の魚を売る分担が決められていました。分担とは、業界別と言いますか、私ども近海物の魚を扱う業界では、入れ物のほとんどが木樽や木箱でした。

 

木樽は水氷に魚を入れます。魚の内容量は、八貫目(30キロ)と、十貫目(37、5キロ)が主流です。樽の重さに氷水、魚を足した総重量は、30キロ樽だと、40キロ、十貫目樽だと優に50キロを超えます。この樽を、運搬用の子車に上げ下げするのに、樽の二箇所に付いた紐を二人でもって、三段にも積むと、それは力のいる仕事でした。
福島、茨城の常磐方面からから送られてくる、所謂 [水戸樽]は,八貫目入るちょっと柔な感じの、それでも蓋と紐がついて、三段位は積めました。樽を互い違いに積むと四斗樽でも、五本の樽で三段に重ねられます。

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魚河岸の歴史

魚河岸の歴史

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日本橋魚市場、俗に言う日本橋魚河岸の起源は、天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐に従軍した徳川家康が、北条氏滅亡後、廃屋同然だった江戸城に入った時から始まりました。

この時、家康の命により、摂津国西成郡佃村(現在の大阪市西淀川区佃町)の名主だった森孫右衛門以下34名の漁師が江戸に呼び寄せられて、江戸内湾とその流入河川での漁業権と徳川家へ漁獲物を上納する役を与えられるとともに、平川村小田原河岸(後の日本橋本小田原町と瀬戸物町、現在の中央区日本橋室町1丁目から本町1丁目付近)、三越の前あたりから昭和通りを越えて本町1丁目あたりの土地を拝領しました。

日本橋が建設されたのが、慶長8年(1603年)とも慶長17年(1612年)ともいわれています。都市機能の整備が進むにつれて江戸の人口も増加し、水産物の一大消費地になっていきました。

当時の水産物の取引は、各地から集荷した商品を問屋が仲買に預け、仲買が小売商に売った後、その売り上げに応じて卸価格を決めるという方式がとられていました。問屋は幕府の屁護を得て権力を強め、流通ばかりではなく漁業生産の場まで影響力を及ぼす存在になっていきました。

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