「魚離れについて」

 

「魚離れ」という言葉が、つい最近になって(2006年水産庁の発表)使われはじめました。嫌な言葉ですね。

魚を生業とする我々にとっても、一般消費者の皆さんにとっても使って欲しくない言葉ですね。

今をさる昭和52年(1977年)アメリカ、ソ連(当時)は相次いで漁業専管水域200カイリを宣言、これを実施しました。大陸棚を中心とする自国周辺水域の資源の確保と管理を目的としたものです。

同時に、日本の遠洋漁業は、米ソから締め出され、サケマス漁、蒲鉾などの原料になるスケトウダラ漁、カニ漁など、大幅な減船を余儀なくされ、壊滅的な打撃を受けたのです。

米ソ200カイリの実施は、その後、カナダ等全世界に波及しました。この結果、特に北洋漁業の不足分を補うため、日本の漁業会社や商社は積極的に開発輸入に投資し、輸入魚が激増してくるのです。その一面で三菱商事の子会社によるカズノコ買い占め事件が発生、魚価が高騰し、社会的批判を浴び、いわゆるマスコミの造語「魚離れ」という問題が出てきたのです。高度成長期における国民の生活様式の変化が、若年層を中心に鮮魚・魚介類の消費を減退させてきたという長期的な動向がその背後にあったとも思われます。

現在、業界で叫ばれている「魚離れ」とは消費者が、魚食から離れていく意味に受け取られかねない危険な言葉になりつつある様な気がします。

魚食から離れていく「魚離れ」の現象を考える時、若年層の食生活の変化が、魚消費減少の大きな原因であると思われます。私達の子供の頃は食べ物に不自由していて、親の作ってくれる物しか食べられなく、我慢して嫌いな物でも食べたものでした。茶碗に付いた一粒の御飯も残さず、正座して食べる等の躾も、親の教えを受けて大人になりました。ここで話が脇道に逸れますが、「食ベレル」「投げレル」等の「ラ」抜きはよしましょう。一流といわれる料理人が使われると美味しいものも、まずくなります。テレビでの話も、画面の下のテロップに「食べられる」と出るのを見て、恥ずかしくないのでしょうか。人に教える立場の「先生」がこれではいけません。

さて本道に入ります。魚が嫌いになる理由に、高い、生臭い、骨がある、調理が面倒、等色々御託(失礼)を述べる人がいますが、魚に対する知識が無い人の言葉だと思います。この人達には私達が教える事が私達の使命です。

嫌いな子には代わりの物も食べさせない、我慢する、辛抱する事を身につける教育(食育ではありません)をする事です。「魚離れ」が進んでいるといわれる原因は親の教育が一番だと思います。

「魚離れ」の声も聞かれる中、魚介類を見直す動きもあって、「魚嫌い」に歯止めがかかり始めた事も明らかです。高度不飽和脂肪酸のEPA、アミノ酸の一種であるタウリンの含有が魚の健康食品としての評価を高めているといった水産物の栄養特性の見直しがその理由です。