築地

組合に新市場ニュース7月下旬号No15で、築地市場の建物解体工事の入札が、応募者の辞退によって不調となった報告を知らされました。

寝耳に水という云い方は違うと思いますが、一瞬、拳骨で殴られたような痛みに、はっとしました。

新しい市場へ“引っ越す”ことばかり考えていて、今まで80年もの長い間、我々仲卸(以前は仲買人)を育ててくれた扇形の鉄骨の大天井が壊されると思うと寂しさが込み上げてくるのは、私一人だけではないはずです。

老朽と狭隘を理由に移転させられる市場の中でも、特異な建物として東京市民・都民に愛されてきた鉄骨の屋根を最近見上げる度に、まだ大丈夫だから「もっと使ってくれよ」と言っているようにも聞えます。

これ(魚の話をしましょう)を読んで頂いている皆さんにも、築地魚河岸の建造物の歴史を知って頂こうと思って筆をとりました。

東京市役所発行の東京市中央卸売市場、築地市場、建築圖集の「序」で当時の牛塚虎太郎東京市長は「現在我国に於ける都市生活者は総人口の四割以上に達し、これ等都市生活者が消費する生鮮食料品は挙げて農漁村に供給を求めねばならぬのであって、此の消費及供給の問題は、国民の保健衛生上竝に経済生活上瞬時も忽に出来ぬ所である。生鮮食料品配給を圓滑にし、価格の公正を圖ることを目的に中央卸売市場が生まれたのである。

壹千五百萬圓の巨費を投じ、水陸両運に最も利便なる京橋区築地の一角地積五萬九千坪を卜し、理想的施設をなす事となり、着工以来五ヶ年、今や東洋一の大市場の出現するに至ったものである」としており、これが昭和9年10月1日、築地本場建築落成に当たっての「序」です。

当時、産地からの荷物の搬入手段は、鉄道と船しか考えられなかった。“ウソッ!”と声が掛かりそうです。

三方を河川(築地川本川・隅田川・築地東支川)に囲まれ、埋め立てによる軟弱地盤という悪條件のもとで、当時の最新の技術を駆使し、多くのアイディアを基に造られてきました。

鉄道による運輸設備

先づ、汐留貨物駅より鉄道側線を敷設し、10t貨車を一時に40輌到着させることの出来る、構内に東京市場駅のプラットフォームを作ることになりました。当時想定された鉄道便による1日平均入荷量は10t貨車を基準にして魚類部55車、青果25車で、1日2~3回着として、鉄道線路の延長は2000mを要するとされました。これを敷地内に直線で敷設することは不可能に近く、線路を敷地の外周に円形に引き込むことといて周辺の建物もこれに沿った形で配置されることになりました。

その結果、魚類部の仲卸市場は扇型となったのです。

線路の延長距離は場内2170m、場外543m、合計2713m、場外には短いながら川を渡る鉄橋も、踏切もあったのを覚えています。

水運による運輸設備

隅田川を浚渫して船舶の出入・碇泊を便利にし、場の南端には500t級の汽船2隻を繋留させられる繋船岸壁を設け、横桟橋は長さ109m幅18mの鉄筋コンクリートで3000t級の船舶を繋留。その他築地東支川沿いに164mの魚類専用荷揚場及び、築地川本川沿い長さ91mの青果専用荷揚場を設置していました。

建物構造

市場の主要部は卸売り人売場及び仲買人売場であって取引の便を考慮し、天井を高くして構造上、経済的範囲で柱の数を少なくし、見通しと、採光、通風の良好なホール式を採用しました。売り場は非常に細長い建物であるので、温度応力による構造体への悪影響を避けるため、要所に伸縮継手を設けました。

【沿革】

昭和41年10月1日

関西とびうお号運行開始

昭和43年10月1日

三陸鮮魚特急(東鱗1号)運行開始

昭和43年10月12日

小笠原から築地本場に鮮魚が初入荷

昭和46年7月2日

山陰特急(水産物)運行開始

昭和62年1月31日

築地市場国鉄引込線廃止

【参考資料】

【東京中央卸売市場 上巻】

東京市役所発行【東京中央卸売市場 築地市場建築圖集】